★何~んちゃって日記(番外編)★

2008年8月25日 (月)

■(67)番外編「いい民宿だった」

 毎週のようにソフトボール、審判などでかみさんに付き合う時間が極端に少ない。「山のかみ」の怒りを鎮めるため、8月の初旬に前夜発3泊4日で北アルプスの最深部を歩いてきました。かみさんと、私どもより少し年令が上のご夫婦4人の高齢者登山隊。
 夜行バスで富山に行き、夏山バスを乗り継いで、登山口から約6時間かけて着いた太郎平小屋というところに泊まる。翌日は約8時間かけて目的の黒部五郎岳、黒部五郎小舎まで。さらに翌日は三俣蓮華岳を経て、双六岳、鏡池、新穂高温泉にくだった。休憩、朝食・昼食の時間を含め所要時間何と13時間!
 山中3日のうち確実に1日は雨に降られるだろう、と予想していたが、「山のかみ」同行のせいか連日の快晴。薬師岳、雲の平、笠が岳、立山・剣、後立山連峰、鷲羽岳、水晶岳、野口五郎岳、槍・穂高連峰が丸見え、素晴らしいパノラマであった。特に黒部五郎の高山植物が群生し、雪渓が豊富なカールが印象的だった(黒部源流となるこの雪渓の溶けた水を集めた小川の水は澄み切り、おいしかったこと)。雷鳥にも遭えた。このコース、多分もう二度と訪れることはあるまい。
 最後の日の歩行13時間は、我々には少々ハードだったが、新穂高温泉の民宿の温泉が目の前にちらつき、どうにか歩き通せた。
 この民宿が素晴らしかった。料理(飛騨牛のほお葉焼き、ニジマスの笹焼き、地元食材の各種料理、岩魚のさしみ・・・これは特においしい、等々)、温泉(二つに、露天風呂)とも申し分ない。これで何と1泊2食9千円ポッキリ(ただし、お酒は別=当り前だ!)。板前だったという主人は朝食にも手を抜かない。
 上に紹介した料理は、夕食のメニューだが、酒を飲んでゆっくり談笑して腰をあげたら、「お客さん、まだ天ぷらとデザートが・・・」という。さすがに満腹、食いきれなかった。しかも美味。
 「山に登るのはかったるい」という人は、新穂高温泉から、「新穂高ロープウェイ」(往復2800円)という手がある。天候がよければ、3千メートル級の山々が目の前だ。往復とも高速バスで行くとすると、交通費、1泊2食の民宿代、ロープウエイでお一人約2万5千円(ただし、お酒は別)。もう1泊すれば9千円余計にかかる(当たり前だ)。
 
 以上、たまの家族サービス、なんちゃって推奨コースです。希望者には、先着5名様まで詳細をお知らせいたします(実はこの日記の読者は4名しかいない)。
 なんちゃって。

(※ご注意:この日記に書かれたことはあくまで個人の見解であり、チームの見解でないことをお断りします。また、書かれている内容の全てが正しいとは限らないことをご了解いただいた上でお読みください)

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2008年6月23日 (月)

■(61)番外編「カミサン孝行」

 きわめて個人的な話だが、私の手帳には土曜日、日曜日のほとんどに予定が入ってる。 [自慢話かよ!だから…?]

 ソフトボール審判、地元自治会の役員をやっている関係でその行事などの予定。そのほか、このブログでは触れてなかったが、月1回程度、山に行っている。
 そして、たまに時間的余裕ができるとソフトボールの練習である。うちのカミサンが怒るのも無理はないと思う。深く反省して、たまには飲みに行っている。もちろんカミサンと。
[だから、どうだちゅうの!]

 そして先々週日曜日、なんとカミサンを連れて(他にも数名のつれがいたが…)山に行ってきた。カミサンと山に行ったのはいつだったか覚えていないくらい前のこと。

 白州日向山(はくしゅうひなたやま)をご存知でしょうか?
 車で登山口まで行って、約2時間弱で頂上近辺まで登れる山だ。人手の入っていない自然林の登山道をひたすら登る。私たちが登ったときは、あちらこちらに真っ赤になった山つつじが咲き誇っていた。もみじも多く、きっと紅葉期にはきれいだと思う。ただ、それだけの山…、と思っていたら大間違い。
 「頂上近くになったら下を向いて登るように」と私はカミサンに言い渡した(実は、お願いした)。そして、「周りに木がなくなったら前を向く」。うっそうとした林を抜けたら、突然開ける目の前の景色に、びっくり仰天!
 眼前にどこまでも続く真っ白な砂浜が展開し、正面に巨大な甲斐駒ケ岳、左手に鳳凰三山、右手に八ヶ岳が…。林を抜けると突如目の前にあらわれるので、登ってくる人たちは「ぎゃー」とか、「何だこりゃぁ~」と歓声をあげる。
 帰途はもちろん温泉に入浴(700円)。運転をしないカミサン達はビールで乾杯!
[俺にゃぁ、関係ない!]

 カミサンは帰ってから数日だけはおとなしかった。日ごろソフトボールばかりに行っている方々に、「カミサン孝行」のお勧めコースである。ただし、疲れるが…。 [つまらん!]

 なんちゃって!

注:[ ]内のお言葉は、読みながらあなたが発した独り言で、私が代わりに書いておきました。

(ここからは本当に行こうと思っている方への参考)
 日向山は長野県と接する山梨県北杜市の白州町にある。白州は名水が有名。尾白川渓谷からそそぐ水は、「南アルプスの水」の出所。サントリーの白州ワイナリーもそばにある。「白州道の駅」では、流しっぱなしの水をいくらでも汲め、18リットルのボトルをかかえたおじさん、おあばさんがうろうろしている。
 流山から中央高速道を経て約2時間半で登山口に行ける(高速道路代合算して片道ピッタリ4千円)。登山口までは、車1台がやっとの林道を登って行く。登山口に駐車場という標識があるが、なんの事はない、林道の路肩に約10台くらいのスペースがあるきっり。Uターンにも苦労する。登山口ですでに標高1130m、頂上は標高1630m。約2時間かけて約500mを登る。登山になれていないと、意外ときつい登りかも…。
 上記の白い砂浜は、花崗岩の砂礫。「雁ヶ原」(がんがわら)という。朝5時に自宅を出て、10時ごろには到着する。お弁当を食べながら息をのむような景色を楽しむことができる。帰りは、「尾白川渓谷」を散策しても良し、温泉「尾白の湯」につかってもいい。

 もし、本当に行かれる方がいましたら、詳細を無料でお教えします。
 再び、なんちゃって。

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2008年5月13日 (火)

■55番外編「ルール覚えよう!」

 7月6日に柏市の「柏陵高校」で、第三種の審判認定会があります。講義と実技だけで、筆記試験はないようです。受ければ誰もが合格!!

 費用は6千円位だと思いますが、チームで出してくれるそうです。しかも「ルールブック」、「競技者必携」のおまけつき。現在、あみ監督が受講する予定となっています。

 皆さんも、ぜひチャレンジしてみてください。

 私は、60才近くになって資格を取得しましたが、もっと若いときにとっていればと反省しきりです。ルールを知れば、試合の面白さ倍増すること請け合いです。

 申し込みは今からでも間に合います。「柏陵高校」は山の中なので、私が送迎いたします(ただし、私の車に乗車できるのはあと3人まで…)。

 お弁当代だけで、1日楽しめる!?

 なんちゃって

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2008年4月 1日 (火)

■50(番外編)ライブは大盛況!

 30日、壱番街桜祭りで開催、ソフトメンバーが過半数いるバンド「Ichiban・Guy」のライブは盛況・好評のうちに終えることができました。

 中央公園の練習を終えた、びでくん、かっちん、げおくんが応援に駆けつけてくれました。しかも、げおくんの奥方も遠路きていただきました。正直なところ感想はいかがだったのでしょうか?
 青ちゃんの弾き語り「春の足音」、たなさんの「ホテルカリフォルニア」、アンコール曲の「スタンド・バイ・ミー」。素晴らしかったでしょう!誰かが歌った「22才の別れ」は無視してください。
 夏にまたライブをやりたいという声がメンバーの中にあります。2ヵ月半の練習であれだけできたのだから、きっとその頃の完成度は計り知れない…。あみちゃんのボーカル主役登場も実現か?

 ところで、リーグ戦の参加連絡がはかばかしくないような気がします。やすお監督代行兼ヘッドコーチも再度腰を痛めたよう?

心配で心配で、夜も寝れません。

なんちゃって

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2008年3月26日 (水)

■(49)(番外編)ライブへのお誘い

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 今週の日曜日、30日は自治会主催の「壱番街さくらまつり」です。満開となった壱番街桜の下で、飲めや、歌えの大騒ぎ!(の予定)
 
 そして、自治会バンド「Ichiban・Guy」のライブが午後3時から開かれます。女性ボーカリストを含めたメンバー6人のうち、なんと3人がソフトボール部メンバー。青ちゃん、たなさん、すがはらさんです。
 演奏曲目は、レベッカの「フレンズ」、風の「22才の別れ」、長渕剛の「順子」、松山千春の「春の足音」、イルカの「なごり雪」、イーグルスの「ホテルカリフォルニア」です。もちろん、アンコール曲も準備万端?
 なんちゃっても参加します。歌う曲目はナイショですが、「お笑いも一つぐらいあっていい」ということで無理やりに?です。

 当日は中央公園も多分、桜が満開。その下で気持ちよく練習したあと、お時間ありましたら、ぜひライブへ!!
 演奏を聞いてビックリすること請け合いです。お笑いを除いてですが…。

 なんちゃって。

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2008年3月14日 (金)

■(45)番外編第二弾

 しつこく、前回の続きです。

 須田卓雄さんという方が書かれた文章の紹介です。

「花があったら」 

 昭和二十年三月十日の(東京)大空襲から三日目か、四日目であったか、私の脳裏に鮮明に残っている一つの情景がある。

 永代橋から深川木場方面の死体取り片付け作業に従事していた私は、無数とも思われる程の遺体に慣れて、一遺体ごとに手を合わせるものの、初めに感じていた異臭にも、焼けただれた皮膚の無惨さにも、さして驚くこともなくなっていた。

 午後も夕方近く、路地と見られる所で発見した遺体の異様な姿態に不審を覚えた。

 頭髪が焼けこげ、着物が焼けて火傷の皮膚があらわなことはいずれとも変りはなかったが、倒壊物の下敷きになった方の他はうつ伏せか、横かがみ、仰向きがすべてであったのに、その遺体のみは、地面に顔をつけてうずくまっていた。

 着衣から女性と見分けられたが、なぜこうした形で死んだのか。

 その人は赤ちゃんを抱えていた。
さらに、その下には大きな穴が掘られていた。

母と思われる人の十本の指には血と泥がこびりつき、つめは一つもなかった。

どこからか来て、もはやと覚悟して、指で固い地面を掘り、赤ちゃんを入れ、その上におおいかぶさって、火を防ぎ、わが子の生命を守ろうとしたのであろう。

 赤ちゃんの着物はすこしも焼けていなかった。
小さなかわいいきれいな両手が母の乳房の一つをつかんでいた。だが、煙のためかその赤ちゃんもすでに息をしていなかった。

 わたしの周囲には十人余りの友人がいたが、だれも無言であった。
どの顔も涙で汚れゆがんでいた。

一人がそっとその場をはなれ、地面にはう破裂した水道管からちょろちょろこぼれるような水で手ぬぐいをぬらしてきて、母親の黒ずんだ顔を丁寧にふいた。

若い顔がそこに現れた。
ひどい火傷を負いながらも、息の出来ない煙に巻かれながらも、苦痛の表情は見られなかった。

 これは、いったいなぜだろう。美しい顔であった。
人間の愛を表現する顔であったのか。

 だれかがいった。

 「花があったらなあ――」

 あたりは、はるか彼方まで、焼け野原が続いていた。

私たちは、数え十九才の学徒兵であった。

 

 このシリーズは、今回でやめます。ごめんなさい。

 次回は本来のソフトボールの話題とします。

(※ご注意:この日記に書かれたことはあくまで個人の見解であり、チームの見解でないことをお断りします。また、書かれている内容の全てが正しいとは限らないことをご了解いただいた上でお読みください)

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2008年3月12日 (水)

■(44)番外編「噫横川国民学校」

 今回の日記はソフトボールと話題がだいぶ外れてしまいます。だいぶ、というより全然関係ありません。すみません番外編です。

 だが、私ども年代にとって忘れてはならない話にふれてみたいと思います。多分、若いみなさんにはあまり興味がない話かもしれない。けれど、ある意味知っておかねばならない話ではなかろうかと思う今日この頃、
皆さんこういう話、つかれますか?
 
 3月10日というと皆さんは何を思いおこしますか?
 古い年代の人の中には、「東京大空襲」があった日と言う方がいるかも知れません。そうなんです。一夜のうちに10万人有余の人が一挙に亡くなった日なんです。
 広島、長崎というとその被災の状況は克明に記され、盛大な慰霊祭が行われ、施設もある。大きく報道される。ところが、63年前のその日に東京は大空襲をうけ、後の広島、長崎に匹敵する人々が無差別爆撃をうけて亡くなっているというのに、なぜか記録はほとんど整備されていないし、なぜか慰霊碑も数えるほど…。
(蛇足:なお、それまで、前任者が提唱していた軍需施設爆撃から方針転換、無差別焦土作戦を実行した新任、カーチス・ルメイ将軍は、昭和39年『日本政府』から「勲一等旭日大綬章」を贈られている。理由は自衛隊創設だったが…。噫)

 なぜこんなことを書くのかといえば、実は一昨日10日夜にTBSから放映された「東京大空襲語られなかった33枚の真実」と題するドラマをみたからなんです。
 昭和20年3月10日未明、現在の墨田区、江東区、台東区一帯を焼け尽くした東京大空襲。飛来した344機のB29によって2時間余の間に約32万発の焼夷弾が投下され、約10万人の人が一夜のうちに命を落とした。縁者によって引き取られた犠牲者の遺体2万人、無縁仏・行方不明者8万8千人ともいわれる。
 ドラマは唯一地上からその惨状を撮影した警視庁写真係の石川光陽(仲村トオル)を主人公にしたものです。ドラマ登場人物は実在の人ばかりらしい。
 彼は後に、占領軍から撮影したフイルムの提出命令をうけ、それを断る。自宅の庭に隠して埋めた。だから、我々はいまそれを目にすることができる。
 そのうちの一枚の写真に私は目を奪われた。黒焦げになった親子の写真だ。母親が背負っていた子どもは、日付を考えると多分私と同年代であろう。子どもが横にころげ落ち、うつぶせの母親の背中にはおんぶのあとか、そこだけ焦げていない。無数の黒焦げ死体が山積みになっている写真よりも胸をうたれた。(その写真を紹介したいけど、ここにはあまりそぐわない?)

 そしてもう一つ。
 約1千人の避難者が押し寄せて焼死した本所区横川国民学校(現墨田区)の教員であった著名な書道家、石川有一の書である。彼はたまたまその日、宿直で学校にいて奇跡的に生き残った。(なお、いかりや長介は、石川先生の教え子で、その日いかりやは鎌倉に行っていて被災を免れたという)
 その惨状を記した激烈な書「噫横川国民学校」の最後にこう記してある。
 「右昭和二十年三月十日未明 米機東京夜間大空襲を記す 当夜下町一帯無差別傷痍弾爆撃 死者実に十万 我前夜横川国民学校宿直にて奇跡生残 倉庫内にて聞きし親子断末魔の声 終生忘るなし」
 「あゝ横川国民学校」という書の写真もありますが、ここでその書かれた内容を下に紹介します。

 もし、この日記を読んで興味をもたれた方がおられたら、来週17日と18日の二夜連続で日本テレビ開局55周年記念番組「東京大空襲」が放映されますので…。

 私は決して日テレの広報係ではありません。念のため。なんちゃって。

(※ご注意:この日記に書かれたことはあくまで個人の見解であり、チームの見解でないことをお断りします。また、書かれている内容の全てが正しいとは限らないことをご了解いただいた上でお読みください)

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